HOMENO GAME, NO WORLD > P.02

<著者プロフィール>
内田 洋平(うちだ ようへい)
1978年生まれ。
幼少より3度の飯よりゲーム好きのコアゲーマーとしてすくすくと成長。
途中、海外で生活してみたり、有限会社の代表をやってみたりと自分でも適当な人生送ってんなぁと思いつつ、いつのまにか某大手ゲーム会社の子会社にてオンラインゲームの「コンテンツプロデューサー」という立場なってる行き当たりばったりな男。
小さなころからゲームに関わる仕事がしたいと思っていたら、今までついた仕事は全てゲーム関係という理想の状態に。
いや、現実はなかなか甘くないなんて愚痴は言いませんよ。
あぁ、この先ゲーム関係以外の仕事に就くことは無理なんだろうなぁ〜。


ゲーム市場の崩壊が
『ファミコン』を生み出した



一言で言ってしまえば、「ファミリーコンピューター」の登場があったからです。

皆さんご存知の「ファミコン」ですが、実はその当時ゲーム機としては後発で、日本ではすでにエポック社のカセットビジョン、セガのSG-1000、トミーのぴゅう太などが人気を博している状態でした。
しかしながらファミコンは、歴史を大きく揺るがすほどの大ヒットに至っるのです。
その要因として、当時における高い機能スペックとその遊戯性の高さが挙げられますが、その成功にはもう一つ大きな要因があります。

それは、1977年に発売されたATARI社のゲーム機『Video Computer System』に起因する「アタリショック」といわれる一連の騒動によるものです。
アタリショックとは、ゲーム機『Video Computer System』が発売されたことによる急激な市場の拡大に伴い、そこに目をつけたサードパーティー(コンピュータ本体を製造するメーカーとは、直接の関係が無いメーカー)製ソフトの粗製濫造によって質が低下し、それが原因で多数のユーザがゲーム離れし、急激なマーケットの縮小を起こした現象を表します。

これを見た任天堂社の山内社長は、上記の現象を深刻に捉え、「少なくとも他社が一年は追随できない物を作れ」と開発チームに対して指示したのです。
この指令のもと、他の追従を許さない高性能且つ高い遊戯性を提供する『ファミコン』が誕生し、ヒットするにいたったのです。

 

世界で一番最初に売れたゲームを作ったATARI社が市場の縮小を招き、それを踏まえて二度とそのような現象が起こらないように新製品を開発した任天堂が成功を収める、
これは、
その後の任天堂のあり方にも大きく関わっており、同社の独創性の高さを物語っているように私は考えます。

ご存知『ファミリーコンピュータ (Family Computer) 』。
なつかしいですか?


そして、後発でも高い遊戯性があるものは売れる!ということを具現化し、その精神は現在発売されているWiiにも継承されているのです。
(次世代機と呼ばれる現在発売されている最新の家庭用ゲーム機の中で、Wiiが一番発売が後でした)

こうして、ファミコンの登場により、日本での家庭用ゲーム文化が花開きました。。

次回は、そこからさらに時間を進めて、任天堂のライバルの登場と、新たなゲーム機の登場、闇に消えてったゲーム機の紹介をしたいと思います。

では、次回まで良いゲームライフをお過ごしください。


***To be continued***

01 / 02
本サイト内の記載内容についての無断転用を禁じます。
Copyright(c)2008 econ & Hong Ae Sun