トレイシィ・チャベス Tracy Chavez <profile> 1986年生まれ。ペルー出身。1991年に家族とともに来日。2009年、関西大学経済学部を卒業し、今春より上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科に入学予定。ペルーの農村地域における持続可能な経済発展メカニズムについて研究中。
「たいせつなものは……たくさんあるけど、一番たいせつなのは、やっぱり『家族』かな。ってこんなんでいいのかな?」 関西弁の交じった愛らしい話し方で、丁寧に話し始めるトレイシィさん。もちろん、いいのですよ。お願いいたします。 「今は家族と離れて暮らしているから……離れてるからこそ、一緒に住んでたときより断然たいせつに思えるんです」 トレイシィさんは、日系3世ペルー人。1990年に入管法が改正され、日系人の日本への入国と就労が容易になりました。トレイシィさん一家は、その翌年1991年に来日したのです。 「私たち家族は、ペルーのフニン県というところに住んでいました。ペルーの中央高地にある山岳地帯から森林地帯にまたがったところで、当時テロが蔓延してとても治安が悪かったんです。それにインフレもひどくて……。そんな状況でしたから、とにかく外国に出られる人はみんな出よう、という感じだったみたいです。うちは日系なので、ちょうど日本で入管法も改正されたし、最初お父さんがひとりで日本に渡って、それから家族みんなで行きました」 一家で移り住む、というのは、かなり大変なこと。かなりの覚悟が要ることだったと思います。 「そうですね。でもウチだけじゃなくて、親戚もほとんど行ってたし、ほとんどがそうだったから。今のみなさんには想像しにくいと思うんですが……。こんなジョークがあるんですって。当時って、出国できる人はみんな出国するという感じだったんだけど、出国のサインをする仕事の人まで出国しちゃったから、誰も出国できなくなってしまった、っていう。こんな冗談があるくらい、緊迫した状況だったみたいです」 来日当時、トレイシィさんは4歳。当時のこと、覚えていますか? 「日本に来たときの状況は、よく覚えてますね。ほんと、こんな国あるんだ、って子どもながらに思ったこと、すごく覚えています。物がすっごく豊富で溢れていて、こんなのがいつまで続くんだろうかって思いました。ペルーから来たから、よけいに思ったのかもしれませんが……」 栃木から親戚を頼って滋賀県に移り住んだトレイシィさん一家。日本での生活が始まりました。 「私は4歳だったので幼稚園に入りました。両親は仕事しないといけないので……。日本語も全くわからない状態で幼稚園に入れられて、最初はかなりショックを受けた記憶があるんです。でもやっぱり子どもってすごいんですよね。日本語、すぐにいつの間にか覚えていったみたい。でも、最初に話せなかった記憶っていうのがすごく染み付いていて、今でも『4歳だったのによく覚えてるねー』って言われるのですが、最初の頃のみんなとコミュニケーションが取れないときのショックが、今も鮮明に記憶に焼きついているんです」 4歳にして、周囲とコミュニケーションを取れないという恐怖心を体験したトレイシィさんですが、自分よりもきっと、7歳上のお姉さんの方が大変だったのでは、と言います。 「私の外見は、『どっちかというと、ハーフかな?』というくらいなんですが、お姉ちゃんは肌も白いし髪も金髪に近い茶色で、見るからに『外国人』という感じ、ヨーロッパの人という感じなんです。当時もう11歳で、日本語も『あいうえお』から始めないといけないし、外見も目立つしで、かなり苦労していました……。そんな中で、私の幼稚園の送り迎えも全部お姉ちゃんがしてくれてたんです」 苦楽をともにして、よけいに家族の結束が強まっていったトレイシィさん一家。そんな一家に、再び転機が訪れます。