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宮川万衣子 Miyakawa Maiko
profile
1978年神奈川県生まれ。大学卒業後、不動産会社勤務を経てバレエダンサーに。自身も舞台に立ちながら、フリーランスのバレエインストラクター、ピラティスインストラクターとして数々のジムやスタジオで活躍。2008年4月より、都内スポーツジムの専属スタジオインストラクターとして活動を開始。





 
舞台の後、ABT(アメリカン・バレエ・シアター)のミシェル・ワイルズさんと。


『踊ること』と関わって生きていく。宮川さんは、そのための手段として、バレエ教室で教えたり、ピラティスインストラクターの資格を手に入れてきました。その道は、初めから計画してたのでしょうか?
「いえ、全然考えていませんでした。もうノープランで。大学を卒業して、不動産関係の一般職として就職して、バレエは土日とか19時半から始まるクラスに通ったりしていたんですが、なんだかしっくり来ない。体が『もっと踊りたい、踊りたい』と言っているのがわかったんです。あれ、私、もうちょっとできるんじゃないの? みたいな。そのとき22歳で、18、19歳と同じスタートラインに立つにはちょっと遅いけどギリギリかな、というのところでした。年齢的にはラストチャンスに等しいので、とにかくバレエ団のオーディションを受けよう、ひっかかったところに入ろう、お金のことは、会社勤めのうちに目標金額を決めてお給料を貯めて、それで食いつないでいければいいんじゃないかって思って。そのときはとにかく踊れないことがイヤで、踊れないことに対して苛立っているのと、自分が安易な会社勤めという道を選んだと言うことに対しても腹立たしく思ったり、そんな気持ちを抱えたままやりすごすことができなかったんです。だから自分の客観的な実力を測るためにも、バレエ団のオーディションを受けてみたんです」

そしてオーディションに見事合格し、バレエダンサーとしての第一歩を踏み出しました。その道の中で、バレエインストラクターの道も同時に始まったのです。
「バレエ団に入ってもお給料がもらえるわけではなく、公演ごとにいくら、って本当にささやかな出演料をもらえるぐらいで。みんなバイトを掛け持ちしながら続けていました。そんなとき、幸いなことに地元のバレエ教室の先生が、子どもたちの教室のお手伝いをしてほしいと声をかけてくださったんです。初めはほんとバイト感覚で、子どもたちと友だちみたいにはしゃいでて。それからしばらくして、小学生中学生が中心のクラスを丸ごとまかされるようになりました。そのときにある先生から、バレエを教えるというのはその人の体を預かるということで、同時に人生を左右することなのだから、もっと責任を持てと叱咤激励されたんです。そのときから、教えるという仕事に対して愛情を持つようになりました」

自分が踊ることと、人に踊りを教えること。同じ「踊り」に関わることでも、全く違うこのふたつは、共存できるものなのでしょうか。
「できる人もいるし、できない人もいると思います。私は、どちらもとても楽しいですね。自分が踊ることはもちろん楽しいし、教えることはその人と信頼関係を築いていくことだから、ひとつひとつに発見がある。だから喜びがあるんです。私が言ったほんのささやかな言葉をずっと覚えていてくれたり、バレエだけじゃなく人としても成長してゆく姿を見せてくれたり。人と関わってゆくことだから、とにかく毎日が発見の連続で、面白いんです。

それに、教えることと自分が踊ること、それぞれが作用し合って経験がふくらんでいくのを感じます。例えば自分が踊ってみて、あ、こういう動きがあるからこれができないんだって気づいて、それを生徒に教えてあげられる。逆に生徒の失敗を見たときに、ここがこうなってるからうまく回れないんだって気づいたら、自分が踊るときはそこに気をつけるようにする。これはどっちもやっていないと絶対にわからないことだから、踊る自分と教える自分、両方がとても大切でとても楽しいですね」
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text by Hong Ae Sun
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